「今日からこのクラスに転校する事になった中枝時雨(なかつえ しぐれ)くんです。みんな仲良くするようにね?」
時雨は窓の外を見て溜息をついた。六年生の夏なんて中途半端な時期に転校したって友達なんてできるわけはない。 そもそも時雨は自分が内気であることを知っていたし、転校続きの数年を通して、友達作りにも疲れを感じ始めてい た。転校して一週間くらいは誰かしら珍しさに話し掛けてくるが、それをすぎれば大抵の人は自分に興味が無くなる。 それは一種の恒例行事みたいなもので、時雨はそうして話し掛けてくる何人かを軽く流した。

* * * *

「時雨くん、新しい学校はどう?」
目の前の白と黒のコントラストはいつも時雨を受け入れる。
どんな悩みを抱えていても、指を軽く乗せ、そのまま滑らせていくだけで、全て忘れさせてくれる。
「まだ転校したばかりなので感じはつかめていません」
「あ、そうよね。 ごめんなさい」
先生との会話はそこまでにして、時雨はどんどん意識を音に集中させていく。
全てがずっと遠くに行ってしまって、今ここにあるのは時雨とピアノだけになる。
時雨はそんな時間が好きだった。

* * * *

「ここのピアノ、使わせて貰ってもいいですか?」
あと半月以上は、どうしたってこの空間にいなくてはならない。
だったら少しは安らげる場所があるほうがいい。と時雨は思った。
「いいわよ、自由に使って。 ピアノが好きなの?」
「はい」
「何か弾いてみせて」
時雨は寸分考えた後、
「じゃあ、トロイメライを」
と言って弾き始めた。時雨はこの曲が好きだった。
「上手なのね」
音楽の先生と思われる女性は感嘆の溜息をついた。
「小さいときからやっているだけです」

* * * *

時雨はそれからよく音楽室へ通うようになった。放課後、昼休み…。
居心地の悪い教室から、自分以外誰もいない(時々、先生はいたが)空間に逃げ込むように通い続けた。
積極的に友達作りをしようとしない時雨に飽きたのか、クラスメイトも好んで時雨に話し掛けようとはしなくなった。 時雨はクラスで腫れ物のように扱われていた。
でも、クラスがどんな状況であれ、ピアノを弾けるのならば、時雨は幸せだった。

* * * *

時雨は時々、窓の外を眺めていた。それは授業が暇になっても特に話す相手がいないからであり、窓の外の景色にどうしようもなく惹かれるからでもある。

そうして、彼は気付いたのだ。

自分と同じように窓の外を眺めている少女の存在に…。

彼女は、人と交わろうとはしていないようだった。時折、話し掛けてくる子もいるようだが、特定の親しい子はないようだ。 現状に一抹の寂しさを抱いている時雨とは違って、その子は一人でも平気そうな顔をしていた。それが、時雨の心に強い印象を残した。けれど、興味を持ったといっても内気な時雨だ。話し掛けることなど到底できるわけもない。
そうして日々は過ぎていく。
時雨はピアノ以外にも心に侵食するものを見つけたのだ。

* * * *

「あなたピアノが上手なのね」
背後からの声に時雨は思わず手に力をこめた。バァーンと汚い不協和音が音楽室に響いた。
「ごめんなさい。驚かせた?」
時雨にはあまり聞き覚えのない声だが、向こうは時雨と親しげな口調だ。
「中枝くんでしょう?」
少女だった。
「私の顔、わからない? 一応、同じクラスなのだけど」
少女は時雨の側の椅子に腰掛けた。
「私は、春海乙 (はるみ おつ)。今度から覚えてくれていると嬉しい。あなたよくここでピアノ弾いているでしょう?」
時雨はこっくりと頷いた。
「毎日、綺麗なピアノの音色が聞こえてくるから気になっていたの」
時雨は驚きと照れで頭が混乱していた。何か声をかけようとして、漏れるのは空気ばかりだ。
「弾いて? 邪魔はしないわ」
「き、曲は…?」
「あなたにお任せする」
春海はもう聞く態勢に入っている。時雨は深呼吸をして、ショパンの『雨だれ』を弾き始めた。

* * * *

その日以来、春海はまめに時雨の演奏を聴きに来るようになった。手に小さなノートを持って。
時雨はそのノートについて聞いたことがあった。
あの日以来、時雨は少しずつ春海と話せるようになっていた。
「これ? うーん、構想をまとめているの?」
「構想?」
「言ってなかったかしら? 私、小説家をめざしているの」
春海は微笑んだ。歳よりもずっと大人びて見える笑みだ。
「そうなの?」
「えぇ。あなたのピアノを聞いていると、たくさんイメージが湧いてくるの。イメージが消えちゃわないうちにすぐに書き留めておこうと 思って」
そうしてノートに走らせる指は細くて白い。時雨は顔を赤らめて、ピアノに向き直った。
「今日は何を弾いてくれるのかしら?」
「何がいい?」
「あなたのお好きなように」

* * * *

「ねぇ、時雨くん」
「なに? 春海さん」
一曲弾き終えた後で、春海は時雨に声を掛けた。
「自分で曲を作ろうと思ったことはないの?」
「え。そんなこと考えたこともなかった」
「やってみたら?」
事も無げに春海は言う。
「それだけピアノが弾ければ大丈夫だと思うけれど」
「でも…やっぱり難しいよ」
「物を作ることって大変だけれど、自分だけの世界を創りあげるときの楽しさ、あなたにもわかってほしいわ」
春海はその楽しさを十分知っているのだろう。春海のノー トを見つめながら時雨は思った。

* * * *

時雨はピアノの前で大きく深呼吸した。
どういう曲を作りたいのか、おおよそのイメージはできている。後はどうやって作っていくかだ。
何度か思うままに弾き、楽譜に書留、それを消してしまう。その作業を何度も繰り返し、時雨は手を止めた。
やっぱり作曲は難しい。

* * * *

気付けば、もう木の葉の散る冬がやってきていた。春になれば時雨たちは卒業することになる。
時雨の曲はまだ完成していなかった。ひどく抽象的で扱いずらいそのイメージを、曲にするのに時雨はとても苦労していた。
春海は「作曲してみたら?」発言から、特にそれについて触れようとはしなかった。けれど、時雨には自分が曲を聞かせるのを春海が心待ちにしているように感じられた。言いようのない焦りが彼を悩ませた。
「もう冬なのね」
窓の外では林の木達が、寒さに耐えかねて、枝をしならせている。
「そう…だね」
冬の景色は何となく物寂しい。近頃の焦りも混ざって、時雨は小さく溜息を吐いた。
「このピアノが聴けなくなるのも、もうすぐなのね」
誰にともなく、春海は呟いた。時雨は首をかしげた。
「どういう…こと?」
春海は少し哀しげな顔をして言った。
「卒業したら私立の中学に行くの。だから、あなたとは今年でばいばい」
ずんと頭に何かが圧し掛かったようだった。
「そうなんだ…」と返した後、時雨は黙ってしまった。当たり前のように、彼女も公立の中学に行くものだと思っていた。学年から見ても私立の中学に行く人は稀な存在だ。まさか彼女もその一人だったなんて。自分の心の多くを占める彼女を失ってしまうという事実に時雨は打ちひしがれた。
「だから、たくさん聴かせて? あなたのピアノ」
時雨は震える指を鍵盤に乗せた。

* * * *

それから、時雨は作曲に没頭するようになった。ぼんやりとしたイメージが時雨の指によって形を持ち始める。
これは彼女に捧げる為の曲なんだ。

* * * *

卒業式の日。滞りなく式が終わった後、時雨は春海を音楽室へ呼び出した。
まだ彼女の現れない音楽室で時雨は窓の外を眺めていた。
キィ…
「ごめんなさい。遅くなったかしら」
春海の正装を見て、時雨は改めて彼女と別れてしまう現実を感じていた。
「ううん、大丈夫。座って? 曲ができたんだ。君の為の曲だから、君に一番に聴いて欲しい」
春海は驚いたようで、何度かまばたきをした後、いつもの席に座った。
「もう忘れているかと思ったわ」
「悩んだんだよ、これでも」
時雨は春海に苦笑すると、ピアノの前に座った。
後ろから春海の視線を感じだ。この視線をこうして感じることもこれが最後になる。時雨は弾き始めた。彼女の為だけの曲を…。

* * * *

春海と過ごした放課後の、あの甘い時間を、時雨は曲にした。琥珀色の空気があたりに漂って、時雨をひどく魅了したあの空間。
二人だけにしかわからない感覚を。

* * * *

「ありがとう」
春海はそれだけ言って、もう何も言わなかった。表情からは何を考えているのか読み取れない。
時雨はピアノの前で大きく息を吐いた。
春海に告白するつもりでいた。呼び出して、曲を聴かせて、そうして…。

でも、時雨は言えなかった。


* * * *

彼女と出会ってから、時雨は本を読むようになった。彼女の一番身近であった存在に触れていたかったからかもしれない。
時雨は家族やピアノの先生に音大への入学を勧められたが全て断り、今は国立の四年制大学の三年生だ。
時雨は今でも時々思う。自分が彼女に影響を受けたように、彼女は自分との出会いで何かしらの影響を受けたのだろうか。

『春海さん、【泡沫】が直川賞を受賞されましたが、お気持ちはどうですか?』

聞き慣れない声の発する、聞き慣れた名前に時雨は振り返 った。商店街の電気屋のテレビから聞こえてきたらしい。 時雨はテレビの前に立つ。まさかな。
『とても嬉しいです。あれは思い入れのある作品なので』
間違いない。そう言って微笑む姿は、あのときの彼女のものだ。彼女は何時の間にか夢を実現させていたらしい。
『思い入れ…と申しますと?』
『ある大事な曲をもとにして書いたものなんです』
春海はリポーターを越えたもっと先の空間に目を遣っているように思えた。小学校のあの時、窓の外をそうして見ていたように。
『曲名を伺ってもよろしいでしょうか?』
『曲名は在りません。それに、世に出ている曲ではないので』
『では、その曲とはどうやって知り合ったのですか?』

『…初恋の人が私のために弾いてくれた曲なんです』

ブラウン管の中の春海は顔を赤らめた。リポーターも微笑み、詳細を詳しく聞こうとしている。
時雨は苦笑とも微笑ともつかない笑みを浮かべた。
そうして、静かに向きを変え、また歩き始めた。


                    【終】