灰色の雲が空を覆っている。その雲の色となんら変わりのない色をした建物が何処までも続いている。この灰色の町に住んでいる人々は誰もが浮かない顔をして、せわしなく動き回っている。
「こっち! こっちから聴こえるよ」
小さな少女が後ろの青年に声を掛ける。
「本当かい?」
青年はやれやれという顔をしつつ、少女の後を追う。
「こっちだ!」
少女の歩みに勢いが出る。人通りのない道に少女の足音が大きく響く。
「そっちはゴミ捨て場だぞ!」

「でも、こっちから聴こえるんだもん。『音』が!」

少女の進む先には処理場に回されない、様々なゴミが捨ててあるゴミ捨て場がある。ガラクタ山と呼ぶにふさわしいその場所に、好んで近づこうという人はいないはずだ。
「まだこの国に『音』があるっていうのか」


♪らららーららー
ゴミの塊の中で歌っている少女がいる。齢は15,6だろうか。
「あっ!」
走っていた少女が声を上げる。その声に気づいて、歌っていた少女が振り返り、微笑んだ。
「本当にいた」
青年が少女の後ろでぼそりと呟いた。
「ねぇ、お兄ちゃん。私、嘘をついていなかったでしょ?」
「本当だ、梨李(りい)」
目の前の二人のやり取りに少女は首を傾げる。
「どうしたのですか?」
少女がゴミの塊から降りてくる。
「貴方は『音』が出せるんですね」
「音? あぁ、『歌』のことですか?」
「『歌』 ...そんな風に言うんですか」
青年は「はぁ..」と感嘆の溜息を漏らした。少女の顔が曇る。が、すぐに笑顔に戻ると
「私はネールといいます。よろしければ、貴方たちの名前も教えてください」
と言った。
「えっと、僕の名前は桃(とう)。で、これが僕の妹で梨李です」
「よろしくね」
梨李がにこっと笑い、ネールも微笑んだ。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
自己紹介の後、桃がおずおずと声を出した。
「はい。何でしょう」
「何で貴方は『歌』を知っているのですか?」
ネールは答えない。ゴミ捨て場に沈黙が流れる。
「今、いえ何年も前からこの国に『音』は存在しないはずなんです」
桃の静かな声を遮る声は聞こえない。梨李の二人を見つめる瞳でも沈黙を破ることはできない。
「現に僕は『音』というものを知りませんでした。学校の授業で少し習っただけです。でなくちゃ、僕も梨李も貴方がしていたことが歌だとはわからなかったでしょう」
「そう。最近、授業で習ったのよ」
「僕はこの町にまだ『音』があるとは思わなかった。正直、梨李が嘘をついているんだと思ってましたよ」
ネールは桃の瞳を見上げた。ガラス玉のような透明な瞳だ。
「何故、この国に『音』がなくなったのか知っていますか?」
ネールが言ったのは、その一言だけだった。桃ははっとして、さも億劫そうな様子で口を開いた。
「知っています。『音』は知らなくても、『音』をなくした過程を知らない人はいません。昔、この国は【音楽の国】として栄えていました。誰もが毎日、『音』と生きていました」
「そうです」
「けれど、数十年前、この国で内戦が起こった。僕が生まれる、ずっと前のことです。発端は人造人間の裏切りからだった。いや、裏切りという言葉は正しくないのかもしれない。あんなにも人に近い存在だった彼らを、自分たちが作り出したからといって、奴隷のように扱かっていたのだから」
「何も考えられない奴隷なら良かったのです。人造人間には自我があった。人間が自我を作ってしまった。あんな風に酷く扱うのなら自我を作らなければ良かったのです。それは大きな、そしてとても残酷な戦争でした。多くの人々が、また多くの人造人間が死にました。勝敗は人間が決しました。人造人間は廃棄され、国には平和が戻りました」
「ですが、その戦争によって人々は『音』を忘れてしまった。戦争の傷跡は今でも人々の心に残っています。人々は娯楽を避けてしまっている」
ネールと桃は下を向いて沈黙した。梨李だけが変わらぬ瞳で二人を見ている。
「ねぇ、さっきのは何なの?」
無意識に、その沈黙を破る梨李。
「歌のことですか?」
「うん! 私にも教えて。私もあんな風にしてみたい!」
ネールは心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「はいっ! 喜んで。よろしければ桃さんもどうですか?」
「あ、じゃあ、お願いします」
ネールの勢いに押されて、桃も歌を習うことになった。
「らららーららー」
ネールが始めに歌ってみせて、桃と梨李が後を追う。


空の真上にあった太陽が沈む頃には、二人は大分歌えるようになっていた。
「楽しい! 『歌』って楽しいんだね」
「そうだね」
桃と梨李は二人で顔を見合わせて微笑んだ。桃がネールに会釈をする。
「ありがとうございます。今日は本当に楽しかった。おかげさまで僕らも随分歌が歌えるようになりました」
「そんな...」
ネールは嬉しそうに頬を赤らめた。
「こんなに楽しいのに、何で誰も歌を歌わないんだろう」
ぽつりと梨李が言った。笑んでいたネールの唇がわずかに震えた。
「戦争は...人々の心から歌うことの楽しさを。 ...楽しむことの余裕を奪ってしまったのです」
その唇から漏れた声はとても悲痛なものだった。
「あの戦争の時から、みんなは娯楽をなくしてしまったんだ」
桃がその声に合わせた。梨李はよくわからないのか、覚えたての歌を口ずさんでいた。

「私はもう一度、みんなと歌いたいだけなのに...」

「えっ?」
ネールの小さな小さな呟きは、桃には言葉として聞こえなかった。意識せず口走ってしまった言葉に、ネールがはっとして口を噤んだ。
「何でもないんです」
驚く桃に静かな笑みを返しながら、ネールはもう何も言わなかった。


「ばいばーい。また明日ね」
梨李がひらひらと手を振る。ネールも手を振り返す。
「じゃあ、また明日」
桃は軽く挨拶をし、梨李の手を引いて帰っていった。


「私は、あとどれくらい歌えるんだろう。もう一度だけでいいから、みんなと歌いたい」
ネールは胸に手を当てると、また歌いだした。月だけがそんな彼女の様子を見ていた。

「こら、そんなに急ぐなって。転ぶぞ」
「でも、今日もネールに歌を教わると思うとわくわくするんだもん」
「あぁー、もうっ!」
どこからかそんな声が聞こえて、ネールはくすりと笑った。
「やっほー」
ネールの目に、梨李に引っ張られている桃の姿が映った。年が離れているように見えるのに、仲の良い兄妹だと、ネールは思った。
「こんにちは」
ネールはゴミの塊の上から二人に笑いかけた。本当に嬉しそうな笑みだ。
「今日もよろしくお願いします」
「はいっ!」

それから毎日、二人はネールのもとへと通った。いつの間にか二人はとても歌が上手くなり、歌える曲も増えた。ネールと二人は仲良くなり、歌を教わるだけでなくお互いの事も話したりするようになった。

そんなある日のことだった。

「「らららーららー」」
梨李とネールが一緒に歌い、その様子を桃が見ていた。そんな普通の日であった。ところが、急にネールが体制を崩した。
「「ネール!」」
ネールはゴミの塊の上に倒れた。上手く体が動かないのか、身じろぎさえしない。そして、ネールは倒れたまま泣き出した。
「ネール、大丈夫っ?」
梨李が心配そうにネールの顔を覗き込んだ。ネールは梨李を心配させないために笑おうとしたが、涙は止まらなかった。
「ネール、ネール!どうしたの」
「ネール、どうしたのですか?」
ネールは嗚咽で途切れ途切れになる声でぽつりぽつりと言い出した。
「私、このまま動かなくなるんでしょうか?」
「え?」
「私は...」
ネールはそう言い掛けて、躊躇った。ふと、そのとき桃はあるものに気づいた。
「型番...」
ネールの首元に番号が彫ってあるのだ。桃にはその番号のならびに見覚えがあった。以前、近くのゴミ箱に廃棄してあったペット型の人造人間の首にもこんな風な番号があったのだ。
「ネール、まさか貴方は...」
桃の言葉にネールはびくりと体を震わせた。変わらず流れる涙と、震えだした唇。そして、

「はい、私は人造人間です。歌を歌うために造られた、人造人間です」

ネールは顔を覆えない代わりに瞳を閉じた。
「......」
桃は黙り込んだ。梨李は驚いた顔をしている。
「もし人造人間であることがわかったら、もう来てくれないと思って言い出せなかったんです」
ひどい涙声だった。ひっくひくという嗚咽が辺りを包んでいる。
「ネール...」
梨李がネールの頭を優しく撫でた。
「そんなこと気にしなくていいのに。私はネールが何であったって友達だよ」
いつもの明るい笑顔で梨李はネールに語りかける。悲しみとは違う涙が、濡れ切った瞳から落ちた。ネールは桃を伺うように視線を向けた。桃は怖い顔をしていた。
「お兄ちゃん?」
「.....」
梨李は不安そうな声を上げた。いつもならすぐに宥めるであろう桃も今回は声を上げない。
「私が許せませんか? 戦争の発端という存在でありながら、そのことを黙っていた私を...」
ネールは自嘲気味に笑いながら、涙を拭った。ようやく体が動くようになったのか、声にも落ち着きを取り戻している。
「...ふぅ」
桃は息を吐いて、そして、ネールの髪をそっとかきあげた。
「『音』を教えてくれた貴方を、許せないはずないでしょう」
桃はゆっくりとネールを抱き起こした。
「桃さん...」
「それよりも、体のほうは大丈夫なのですか?」
桃は心配そうに聞く。その言葉に、ネールは考えるような仕草をした後、梨李の顔をちらりと見た。その視線に気づいた桃は
「梨李、ちょっと向こうに行っててくれないか。あとでみんなで歌うからその練習をしててくれ」
と梨李に言った。
「ネールとお兄ちゃん、内緒の話? あやしー」
梨李はくすくす笑った。
「わかった! お話が終わったら呼んでね」
ぱたぱたという形容が似合いそうな調子で、梨李はゴミ山を駆け下りていった。

「で、体はどうなのですか?」
「......」
「...悪いのですか?」
「...悪いというか...寿命なんですよ。体中にガタがきてる。内側がもう腐り始めてるんですよ」
彼女は「これは致し方のないことなのです」と言いながら、儚げに笑った。
「町にはエンジニアがいます。その人に頼めば...」
「いいんです」
ネールは桃の言葉を遮った。
「私は人造人間ですよ。町の人にどうやって頼むつもりなんですか。貴方方に迷惑はかけられない。それに、私の体の部品はとても古いものです。もうこの町には...この国には残っていないでしょう。確かに新しい部品で、この体を造り直すことはできます。でも、その際にエラーが発生し、私の記憶・自我は消されます。私、そうまでして生きていたくないんです。私を造ってくれたあの人のことを、忘れたくないんです。人とともに歌えるように...。人とともに暮らせるように...。限りなく人に近い容姿にしてくれたあの人のことを忘れたくないんです」
ネールは満ち足りた顔をしていた。桃はネールが以前から寿命のことをわかっていて、なおかつそれを受け入れているのだということを知った。
「でも、それじゃあ...」
桃は自分の視界がぼんやりと滲んでいくのを感じてた。
「僕らは貴方を、歌を教えてくれた貴方を、失ってしまうということじゃないですか」
「...」
ネールは笑っていた。けれど、瞳は悲しみを映していた。
「そんなの、僕は嫌です。貴方を失うなんて。そんなのっ...」
「私だって!」
ネールは叫んだ。ぐしゃぐしゃの顔で彼女は泣き叫んだ。
「貴方たちと一緒に歌っていて、とても楽しかった。貴方たちといた時間は短かったけれど、とても楽しかったんです!」
「...」
「でも、私はやっぱり...」
桃とネールは同時に言葉をなくした。ネールの嗚咽だけがその静寂をかき消していた。

「さようなら。桃さん。梨李さん」
ネールは去っていく二人に手を振った。
「ごめんなさい。貴方方との別れはつらいです。でも、私は『人間』になりたいんです。部品を変えれば生きていけるようなそんな存在ではなく...」
ネールはきしきしと痛む体を抱えながら、涙をこぼした。向こうに見える灰色の町。周りを囲むゴミの山。そして、ネールをいつも静かに見つめている月。ネールにとっては何もかもがとても愛しかった。
「お兄ちゃん...」
梨李が桃の手を引っ張った。桃はその手を勢いよく振り払う。
「何だよ!」
桃の怒声に驚いて、梨李は身をすくめた。
「ごめん。お前に当たるなんて...」
桃は優しく梨李の頭を撫でた。
「...ネールは...。やだ、やだよぉ!」
「僕だって...」
「なんで? なんでネールはしんじゃうの?」
「寿命なんだ...」
「じゅ..みょう」
桃は目の前の妹を優しく抱きしめた。黙っていられることではないから教えた。けれど、この小さな胸には、この残酷な事実を受け入れられる余裕はあるんだろうか。
「梨李、僕は彼女に一つ、してあげられることがある」
「なぁに?」
「町の人に頼むんだ。もう一度、彼女と一緒に歌って欲しいと...」
「?」
「町の人の中にはネールと歌ったことのある人がいるんだよ。昔だけれどね。そして、ネールはその人たちともう一度歌いたいと思ってる」
梨李の真っ赤な瞳に輝きが戻り始めた。 「そう...だね」
桃はもう一度、梨李の頭をくしゃりとすると、手を引いて町へと帰った。

次の日

二人は街中でネールに教えてもらった歌を歌っていた。通りを歩いていく人々は忙しそうに、そんな二人の脇を去っていく。子供たちは呆然と二人を眺めている。あるいは、二人を囲んで楽しそうな笑顔を浮かべたりする。そんななか、その歌に反応する人もいる。時折、「何故君達がその歌を...?」と声を掛ける人もいる。そういう人たちがいると、桃と梨李は歌うのを止め、
「僕たちはネールからこの歌を教えてもらったんです。ネールをご存知ですよね?」
とその人たちに聞く。頷く人もいれば、そのまま去ってしまう人もいる。
「ネールはもう一度、貴方と歌いたがっています。どうか町の西側にあるゴミ捨て場を訪れてください」
相手がどんな反応を返しても、二人はこう言うのだ。二人は来る日も来る日もそれを続けた。
毎日、様々な人に会うが、人々の反応はそれぞれだった。

「ネール? 誰だか忘れてしまったな。私は忙しいんだ。こんなことで煩わせないでくれないか」
「誰が戦争の原因である人造人間のもとなどに...」
「君たち子供は気楽だな」


まだ誰一人、ネールの元へ向かう人はいない。


桃はネールに残された僅かな時間を考え、焦燥感を感じていた。以前よりも、熱心に歌を歌い、積極的に人々に声を掛けた。
「お兄ちゃん、何で誰もネールのところに行ってくれないのかな? みんな、昔は楽しく歌っていたんでしょう。戦争のせいとか...私にはよくわからないよ」
「僕もわからない。でも、僕らが思っているよりも戦争は残酷なものなんだよ」
「......そっか」
納得したのかしないのか。梨李は小さく呟いた。


「梨李、ネールの所に行こう」
「お兄ちゃん?」
「最近行ってないだろ。また、ネールと一緒に歌いたいよ」
「うん! でも、今日は町で歌わなくていいの?」
「..今日は休もう。明日からまたやればいいさ」
「そうだね。ふふ、楽しみ!」
梨李はさも愉快そうにスキップしながら、ゴミ捨て場へと向かう。
「ネール! 久しぶり!」
「ネール」
「来たよ! 歌おう!」
二人がゴミ捨て場に着いた時、いつもの山にネールの姿は無かった。
「ネール?」

♪らららーららーらららー

少し遠くで、ネールの鈴を転がすような歌声が聞こえてきた。
「ネール!」
梨李は声のほうへ小走りで駆けて行く。そして

「ネールッッ...!」

ネールの声の聞こえた辺りで、梨李の悲痛な悲鳴が響いた。その声に驚いた桃は、慌てて二人のもとへ駆けつけた。 桃はそこで横たわっているネールを見た。傍らには梨李がいる。
「ネール...?」
桃の顔からさっと血の気が引いた。予想していた事態ではあったが、それがこんなに早いとは思っていなかった。
「桃..さん? 梨李さん...?」
ネールは頼りなさげに空中へと手を伸ばした。その手に梨李がしがみつく。
「...見えてないの?」
「...はい。体も、もう動かなくて、ずっとこのままだったんです。よかった。また、貴方たちに会えました」
ネールは焦点の合わない目で笑った。その痛ましい様子が桃の胸を締め付けた。彼女はいつからこの状態だったんだろう。彼女のためとはいえ、町中で歌うばかりだった自分の姿を思い出し、唇を噛み締めた。
「ネール、ごめんなさい。僕らは側にいてあげられなかった」
「いいんですよ。私たちはまた貴方たちに会えたことが嬉しいんですから。一緒に歌いましょう」
ネールの顔からは笑顔が絶えず、二人の瞳からは涙が絶えない。
「らららー。 ...っくーらららー」
梨李は嗚咽でところどころ切れながらも、歌を歌い始めた。ネールもその声に重ねるようにして歌いだす。桃もそうした。ゴミ捨て場に三人の歌声が響く。
「私、幸せです。こうして歌うことができる。それに応えてくれる人たちが側にいる。私はこの生を、こうして終えることに後悔はありません」
ネールは今までで一番、綺麗な声で歌い続けていた。


♪らららーららーらららー


と、声が増え始める。あちらこちらから歌う声が重なり、ついには合唱程度の人数になった。ネールははっとして、涙をこぼした。桃と梨李も辺りを見回す。 そこには...
二人が声を掛けた町の人々がいた。ネールを囲んで歌い続けている。ネールは見えぬ瞳に涙を溢れさせながら、それでも歌い続けた。
「ありがとう」
ぷつりとネールの歌声が消えた。
風が彼女の髪を揺らす。彼女は至福の笑みを浮かべていた。






「お兄ちゃんー」
梨李が駆けてくる。桃は肩越しに振り返った。
「あのね、町の広場で合唱祭があるんだって。行こうよー」
「わかった。ちょっと待ってて」
桃は目の前の墓石に手を合わせた。梨李もいつの間にか隣で手を合わせている。
「ネール。私、教えてもらった歌を忘れないからね」
梨李のその言葉に桃も微笑む。そして、梨李の手を優しく握った。
「歌いながら行こうか?」
「うん!」


♪らららーらーらららー


【終】