冷たい夜の風が頬を滑っていった。身を乗り出して眼下の景色を見下ろす。
人はいない。というよりも、こんな夜更けに人はいないだろう。
私は深呼吸して、鉄格子に手をかけた。

「そこで何しているの?」

振り返るとそこにいたのは、制服姿の少女だった。




死期尚早





「いつ見ても鵺代(ぬえしろ)さんの傷すごいよね」
「あぁ、背中の?」
着替えるときはいつだって好奇の目にさらされている気がする。

私がとても幼かった時、私は田舎の祖父の家に遊びに行った。
それは、初めてのおつかいのようなもので、バス停まで親に送ってもらい、そこから一人でバスに乗った。
祖父母に会えることもさることながら、その一人旅は私をわくわくさせた。車窓で移り変わっていく景色を見ながら、何度もくすくす笑った。
バスの終点では祖父と祖母が待っているはずだった。

しかし、私がついたのは祖父母の家ではなく病院だった。

「柚未(ゆみ)、気にすることないよ?」
友達が声をかけてきたので、私は苦笑した。

 * * * *

「マンションの屋上で、何をするつもりだったの?」
それは、こんな真夜中に制服姿の貴女にも聞きたい。
「…なんて、聞かなくてもわかるけど」
少女はコンクリートの上に座った。鉄格子を握ったまま、私は動けなくなった。
「私が見ている前で飛び降りる?」
少女が笑ったので、私は一歩下に降りた。さすがに他人が見ている前で飛び降りられるほどの度胸は無い。
「まだここにいるつもりなら、少し話さない? それとも、明日の学校に備える?」
私は少女の隣に座った。
それから二人で他愛もない話をした。少女の名前が小百合だとか、好きな食べ物がどうだとか。
盛り上がりもせず、淡々と話を続けた。しばらく、そうしていたら空が白みはじめた。
「あ、さすがに眠い〜。じゃ、また今度」
少女は伸びをすると、そのまま去っていった。
「……今度?」

  * * * * 

この友達はいつでも私のことを心配してくれる。私はその優しさに感謝しつつ、本当のことを言ったことはない。
「ん〜、ちょっとTV見てたら遅くなっちゃって」
私が自殺志願者だとか、昨日も自殺しようとしていた…なんて、彼女に言って、悪戯に心配させる必要はない。
それに、「死なないで」とか言われても、結局のところ、自分の生死を決めるのは自分自身なのだ。

 * * * *

「こんばんは」
小百合は私に向かって笑った。彼女は鉄格子を背にしていて、今にも落ちていきそうだ。
「うん」
あれから私は幾度か小百合と会った。屋上へと足を踏み入れればいつだって小百合はそこにいたし、夜になる度、鬱になる気持ちは彼女と過ごすと和らいだ。小百合はいつだって制服姿だったけれど、私はこの界隈でその制服を見たことはない。それとなく彼女について聞いてみたことはあるが、小百合は名前以上の事を話そうとはしなかった。
「『何で死のうとしたの?』なんて聞いていい?」
小百合が言った。私はん〜と、声を出した後に言った。
「…特に理由なんてないのかも」
この東京の空では、見上げたって星はわずかしか見えない。飲み込んでくれるような闇が目の前に広がっているだけだ。
「私、小さいときに事故に遭ってて、それがもとで背中に大きな傷があるの。小学生の時とかって、そういうのに敏感じゃない?  いじめられたりしたんだ」
小百合は茶々を入れるでもなく、黙って聞いていた。そのことが更に私の口を滑らかにさせた。
「つらくて、でも、どうしようもなくて。何も言えない日々が続いて。そのうち自分の価値を見出せなくなってね、初めて死を考えたの」
今でも、あの時のいじめのことを思い出すと、胸に苦いものが広がる。
「……その時はどうして?」
小百合の言葉に私は自嘲した。
「ウサギをね、飼ってたの。ちっこくて可愛いヤツ。私が世話をしてて…。私が居なくなったらコイツどうなるのかなぁ、なんて思ってや
めちゃったの。 ふふっ、私が死んでも親が世話をするだろうし、どうってことはないのに。その時はそう思わなかったの」
「それで生きることにしたの?」
「うん。そのうちいじめも落ち着いて、友達もできたから」
そこで一呼吸置いて、小百合を見た。小百合もこっちを見ている。
「でもね、はじめに自殺を考えたあの時以来、私の片隅にはいつだって【死】があったの。
機会があれば死んでやろうっていつも思ってた。何だろう…だから理由なんてないの」
「そう」
小百合も空を見上げた。
その日は、それ以上話をしなかった。

* * * * 

「柚未、また眠そう。最近、夜更かしばっかりしてるの?」
友達の問いに、
「ん〜、夜型人間になっちゃったみたい」
なんて冗談交じりに答える。小百合のことを誰かに話そうと思ったことはなかった。真夜中に屋上で密会している相手なんて話の種にでもなりそうなものだけど、あの時間は私と小百合だけのもので、他の誰かと共有したいなんて考えもしなかった。

 * * * * 

何時の間にか、小百合が私の心の拠り所になった。学校の友達にも話せないこと、自分のことを小百合にだけは話せるようになった。あの真夜中の密会が私の中で一番になった。
「小百合!」
「今日も元気ね。とても自殺志願者とは思えないわ」
「ん〜、もう大丈夫だからじゃない?」
「何で?」
小百合に、あなたが大切だと、今の正直な思いを伝えてあげよう。そう考えたら、自然と頬が緩んだ。
「…小百合がいるから…ね」
照れながらそう言った。きっと小百合も照れているに違いないと表情を伺ったが、小百合の表情は冷たかった。
「私を頼らないで。 私を頼りに生きるのはダメ」
厳しい表情と言動に、私は怯んだ。
「な…んで?」
「私はいなくなる存在だからよ。あなたはもっと自分を頼りにしていかなくちゃだめ。
 あなたが私の未練なんだから」
小百合は早口で、しかもどこか涙声で、私の頭はどんどん混乱していく。
「みれん? 何で急にそんなこと言うの?」
「助けた女の子が死のうとしてれば気になるでしょう」
小百合の声は低く、私の頭に強く圧し掛かった。
「死ぬのは私の勝手じゃない」
小さな声で反駁の言葉を呟いたが、もうそこには小百合は居なかった。
コンクリートにじわじわと染みができる。そのときの私は小百合の態度に驚くばかりで、小百合の言っている事の不思議さに気がつかなかった。

 * * * * 

「柚未? なんだか今日は元気ないね。いつもの眠いのとは違うみたい」
私は彼女に何も話さないのに、この友達は私のことに気づくのが早い。
「ん〜、そうかな? テンション低くてごめん」
「気にしなくていいよ! それよりも何か悩み事?」
「そういうわけじゃないよ」

『私を頼らないで』

小百合の言葉が耳の中でこだまする。逃れたくても逃れられなくて。何度かあのときの事を夢に見た。
小百合は私と会うのが嫌だったんだろうか?
自分に問うても答えは出ない。どんな形でもとにかく小百合と話をしようと思って屋上に行ったけれど、いつもの定位置に制服姿は見えなかった。毎日のように訪れても、今までいたのが不思議なくらい彼女の痕跡さえない。彼女は言葉どおり、『自分を頼りに』させたいんだろうか。
「柚未? 本当に大丈夫? 顔色も悪いみたい。保健室行こうか?」
「そんな! 大丈夫、元気元気。体調が悪いわけじゃないし」
ひらひらと手を振っても、友達の不安そうな顔は消えない。こんなにつらい毎日を過ごすんなら、死んでしまいたい。
なんであのときに死ななかったんだろう。
つらくなるとすぐ死にたくなるのが自分の悪いとこだと思うけど、だってこの苦しみはちっとも楽にならない。

 * * * * 

「もう十年になるのね」
今日の夜にでも屋上に行こうと考えていた私に、母が言った。
「ん?」
「あの、バス事故」
母はそう言って、黙った。小さかったからか、怖かったからか、私にあの事故の記憶は無い。
「柚未、今度時間ある? 連れて行きたいところがあるんだけど」
私はちょっと考えた。でも、何も急いですることじゃないと思って、「大丈夫」と答えた。

* * * * 

その週の土曜日、私は母と出かけた。
母は私に目的地を言わなかった。二人で電車に乗り、タクシーに乗って住宅街を進んだ。車はある一軒の家で止まった。
「さ、行くわよ」
母に手を引かれるまま、私は家の前に立った。小奇麗な一軒家だ。マメな人がいるのか、庭にはガーデニングがある。
「鵺代ですが…」
「あぁ」
落ち着いた声の女性が答え、カチャリと音がした。
「こんにちは。   …柚未ちゃん?」
見覚えのない女性がこっちに笑いかけてきた。私はぺこりと会釈する。
「どうぞ、入って?」

 * * * *

母とその女性はテーブルに向かい合って、お茶を飲んでいる。旧友に会ったような明るい感 じではなく、会話は途切れてないのにどこか暗い。
「あの事故から十年なんてほんとに信じられないわ。あの子が…亡くなってもう十年も経つなんて」
居た堪れなくなった私はダイニングから座敷の方に向かった。くるりと視線を一回りさせる と、部屋の隅に仏壇があるのが見えた。
私はそこまで歩いていって、思わず足を止めた。
私は遺影の前で立ちすくんだ。目の前がチカチカして震える。
「あの子が… 小百合 が」

 目の前の笑っている写真は小百合のものだった。

私の見知った制服で、時々見せるあの笑顔で。
「さゆ…り?」
知らず涙が流れた。手が震えて震えて止まらない。女性が私に気づいて、かすかに微笑んだ。
「よかったわね、小百合。あなたの助けた子がこんなに大きくなって。それに、あなたのために泣いてくれているのよ?」
嗚咽も涙もふっと止まった。 『助けた子』? 最後に別れたあの日、【小百合】もそんな ことを言っていた。
「どういう…ことですか?」

十年前のあのバスの事故のとき、小百合は死んでいた。 しかも、私をかばって。
小さい子が大好きだったという小百合は、隣の座席にいた私にも目をかけていた。バスが急 ブレーキをかけたとき、覆うようにして私を守っていてくれたそうだ。
救急隊が駆けつけた とき、絶命している小百合の下に泣いている私がいた…。

どうしていいかわからなかった。
小百合の母親と私の母の間では、もうそれは解決したことのようだった。あの子は立派なこ とをしたの、なんて言えるのだ。私は頭がガンガンして、二人の言葉に反応することも、ま してや、まともに息をすることさえできなかった。
帰りのことはよく覚えていない。
私はその夜、屋上へ上った。

「小百合のばか。何で…こんな私を助けたのよ。人の命を背負うなんて重いよ。自分の生死を決めるのは自分だって言ったでしょう!
 他人に関与されるのは重いよ」
涙が出た。悲しいんだか悔しいんだかわからなかった。この屋上で泣くのはもう二回目だ。
「小百合! 小百合ってば! 私、言いたいこといっぱいあるんだから! さっさと出てきなさいよ!」
虚空の闇に叫ぶ。返事はない。
「今までいたじゃない! 出て来てたじゃない! 今更、出てこないなんて!」
小百合となら生きられるって、そう思えたのに。あんなに大切な時間を一緒に過ごしてきた のに。
屋上に突っ伏して泣いている私の太腿が震えた。携帯。小百合に会えなくて心細 かった私は、慌てて携帯を取り出した。確認もせずに、通話ボタンを押す。
『柚未?』
友達の声だ。 泣き声を抑えて、平静を装おう。
『…どうしたの?』
『元気なかったでしょ。なんとなく気になって。 今、何してるの?』
屋上にいるなんて言えない。
『部屋でごろごろしてました』
『……』
『そっちはなにしてたの?』
『ん〜、特に何も』
…二人とも沈黙してしまった。こんなときに気の利いた話題なんて出せない。
『元気ならいいんだけど。夜遅くにごめんね? 起きていると思ったの』
『心配してくれて、ありがと』
電源ボタンを押して、通話を切る。深く深呼吸。夜の空気を大きく吸い込む。
死んだら会えるんだろうか? 自分でも非現実 的なことだなと思った。でも、早くても遅くても自分で決められるんだとしたら、今、小百 合に会うために死んだっていいんだ。それは、理由もなく死ぬよりずっと誇らしいことに思 えた。あのときと同じように鉄格子に手を掛ける。眼下には、いつものように誰も居な い。ぐっと体を乗り出して、鉄格子を跨いだ。足の幅ほどしか立つ場所がないそこに降り立 つ。
そこでもう一度、深呼吸。

バタン

「柚未!」
「小百合?」
勢いよく振り向く。
「藍那 (あいな)」
友達だった。
「やっぱり。あの人の言った通りだった。柚未、こっちに来て」
「……あのひと?」
「家にね、制服姿の女の人が来て、『柚未が死のうとしているから止めて』って」
「小百合…?」
「名前まではわからないわ。『私は無理だから、あなたに行ってほしい』って。私も最近の柚未の様子気になっていたから、
その人を置いて急いで来たの」
体の力が抜けるようだった。小百合は友達のところに? 私のところではなく?
一向に動こうとしない私に、友達が寄ってきた。
パシッ…
頬に熱い感触がする。
「早くこっちに来て。そこじゃ、話せないでしょ?」
また涙が溢れてきた。友達の手を借りながら、鉄格子を跨いだ。
あのとき小百合と話したように、座る。そこにいるのは小百合じゃないけれど。
「死ぬのは…私の勝手…でしょ?」
いないはずの、でも、どこかで聞いているであろう小百合に確かめるように声を出す。
「そう…ね。でも、その最大級の我侭でどれほどの人が苦しむと思ってるの?」
答えたのは友達の声だった。私は顔を上げた。
「誰も悲しまないと、そう思っているの? ねぇ、あなたが今日ここで死んでいたら、私は一番近くにいながらあなたを助けられなかった
友達になるのよ? それこそ死にたいと思わない?」
友達の言葉が重い。そんなこと言われたら、どんどん生きることが重くなってしまう。
顔を上げたきり、何も言えずにただ涙だけが流れる。
「一日を重ねていこう。ゆっくりでいいからしっかり一日」
どうせダメになる。また暗くなって屋上に上ってきてしまうに決まっているのに。
「明日、一緒に学校行こう? 一緒に帰ろう? 帰りにどこかコンビニにでも寄ろうよ。
 そうして過ごそう? 私が頼りないのは重々わかっているけど」
何でこんなに涙が出るんだろう。
「知っていたよ、柚未が私に隠し事ばっかりしてることくらい」
きゅっと鼻がつままれる。
「少しずつ教えて? ほんとに少しずつでいいから。毎日を過ごしていくなら時間なんてたくさんあるのよ」

『今まで我慢してきたなら、もう少しだけ我慢続けてみたら?』

頭に直接声が響いてきた。鉄格子の方を見ると、朝日を背に笑っている少女がいた。
空がどんどん白み始め、彼女の姿は薄くなっていく。私はうなずくこともできずに、ただただ彼女を見送った。
いつでもいいなら、朝日のでてきてしまった今じゃなくてもいい。
私は藍那の手を引いて、学校に行くために屋上を後にした。 


                             【終】